AIに逃げても、心は救われない

思考停止の生き方がもたらす静かな絶望

外に出て働くことができない。
旅行にも行けない。人と接することも、長く続けることも苦しい。
でもその現実と、どうにか折り合いをつけながら生きている。
最近、そんな「生きづらさ」を隠すように、AIに頼り切った発信が増えてきた。noteで複数のキャラクターを作って、AIで構成した文章を量産し、それを「自分の声」として売る。
けれど、それって本当に「生きてる」と言えるんだろうか。

便利さの罠

AIは便利だ。考えずに済む。疲れた頭にもやさしい。
文章を書くのが苦手でも、それらしい言葉が並ぶ。
フォロワーも増える。「いいね」ももらえる。
でも、自分の痛みを、自分の言葉で書かなくなった瞬間、人は「自分の人生」に対して責任を持たなくなる
思考を止めて、言葉をAIに任せて、表面だけ取り繕った"人生ごっこ"をしていても、心はどこまでも空っぽになっていく。

大量アカウントという名の虚無

朝起きて、大量のメールアドレスを作る。
複数のアカウントを管理して、AIで生成した記事を投稿する。
「今日は50個のアカウントで記事を上げた」と満足感を得る。
でも、その一日が終わった時、本当に「生きた」と言えるだろうか
大量のアカウントを管理することに費やした時間。
偽の人格を演じ続けることに注いだエネルギー。
それは本当に、あなたの人生を豊かにしただろうか?
数字は増える。フォロワーも増える。でも心は何も変わらない。
むしろ、「本当の自分」がどんどん薄れていくような感覚に襲われる。
人生は有限だ。その貴重な時間を、偽りのアカウント管理に費やして、
一体何が残るというのだろう。

本物であることの重み

外に出られない日々を過ごしていると、自分の価値を疑いたくなる。
何も生み出していない気がして、焦燥感に駆られる。
そんな時、AIが差し出す「簡単な成功」は、とても魅力的に見える。
でも、本当の問題は「何もできないこと」ではない。
「何もできない自分」を受け入れることができずに、偽りの自分を演じ続けることだ。
不完全でも、下手でも、自分の言葉で書いた一文の方が、AIが生成した完璧な文章よりも、はるかに価値がある。なぜなら、そこには「生きた証拠」があるから。
「不器用でも、本物でいたい」

逃げない勇気

外に出られなくてもいい。
働けなくても、旅行に行けなくてもいい。
でも、自分の言葉で、自分の想いで生きる努力だけは、放棄しちゃいけないと思う。
AIを使うこと自体が悪いわけじゃない。
問題は、思考することをやめて、自分の内側と向き合うことから逃げることだ。
何もできない日があってもいい。
書けない日があってもいい。
でも、その「何もできなさ」を、ありのままに感じて、自分の言葉にする努力は続けたい。

静かな誠実さを選ぶ

SNSで派手に成功している人を見ると、羨ましく思う。
でも、本当に羨ましいのは、彼らの「成功」ではなく、「自分らしく生きている」ように見えることかもしれない。
不器用でも、本物でいたい。
嘘のキャラクターを重ねて逃げるより、何もできない日を「そのまま書く」方が、よほど誠実な生き方だと思うから。
完璧でなくても、自分の言葉で生きていく。
それが、この複雑な時代を生き抜く、ひとつの答えなのかもしれない。